「命について考え直そう」。学生広報スタッフが、阪神大震災で亡くなった村田恵子さんを偲ぶ会を取材しました。
2011/01/14
阪神大震災で亡くなった本学文学部国文学科4年の村田恵子さん(当時21歳)を偲ぶ会は、1月14日2午後から約1時間半にわたって中央図書館ラウンジで行われました=写真中=。会には恵子さんの父親の雅男さん(68歳)=写真左の左端=、母親の延子さん=同2人目=、大河原理事長=同右から2人目、糸魚川学長=同3人目=、恵子さんの卒論を指導した玉井敬之氏らが参加しました。
学生広報スタッフの山田有佳さん(情報メディア学科3年)と角田瑞穂さん(同学科2年)、田中未来子さん(同学科2年)の3人=写真右から順=が参加者の感想などを取材しました。以下は3人の取材記です。
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「この学校でお世話になり、本当によかったです」恵子さんのお母さん
「本当に有難うございます」。偲ぶ会に先立ち、図書館地下1階の展示コーナーを訪れ、愛娘の遺品を見た延子さんの目から、たちまち涙があふれ出ました。恵子さんが卒論を書くのに使った万年筆は、延子さんがお母さんから贈られた、親子3代にわたって使われたものです。
延子さんは「このような機会を与えていただいて、言葉にならないくらい嬉しいです。感謝しかありません。私は娘と一緒に震災で亡くなるはずでした。その後も16年間生き続けられたのは、この日のためでした。娘の死には何か役割があった…。そんな気がしてなりません。たくさんの若い人の目に止まれば、こんなに嬉しいことはありません」と話されました。
震災2週間後に、ご両親は崩れた自宅の瓦礫の中から、卒論や筆箱などの入ったトートバックを見つけました。卒論だけはバックから出して、大学に提出しましたが、恵子さんの思い出がバラバラになるような気がして、残りの品はバックに入れたままにしていました。遺品を大学に寄託することを決意した先月、バックを開けると、中から瓦礫の砂がこぼれ落ちました。「バックの中で眠っていた恵子の遺品の落ち着き先が、ようやく見つかりました。人生の半分を武庫川学院で過ごした恵子は、これからも学院にいることができて、安心していると思います」と最後に穏やかな表情を見せられました。
糸魚川学長には「素晴らしい機会を有難うございました。きっと娘も驚いています。この学校でお世話になったこと、本当に良かったと思います」を話されていました。
「生きたくても生きられなかった若者が大勢いました」恵子さんのお父さん
父親の雅男さんは、恵子さんが亡くなられたときの様子を「倒壊した自宅の中に閉じ込められた娘の名前を呼ぶと、『お兄ちゃん助けて』という声が聞こえてきました。もっともっと生きたかったのに、生きられなかった若者が大勢いたんです。卒論を探しましたが、なかなか見つからず、諦めかけた2週間後に、恵子の部屋のあったあたりから見つかりました。恵子が亡くなってからしばらくして、恵子の内定が決まっていた会社の社長の方がお見舞いにきてくれました。驚き、嬉しかったです。遺品が手元からなくなることは、寂しいですが、寄贈することに、迷いはありません」と話されました。
「学生が生きることについて考え直すきっかけに」大河原学院長
大河原学院長は会の冒頭、ご両親に「大切にされていた遺品を寄託していただき、ありがとうございます。恵子さんの遺品は、学生が生きることについて考え直す機会になると思います」とお礼を述べられました。
「卒論は恵子さんが今も生き続けている証し」糸魚川学長
糸魚川学長は卒業式の度に、亡くなる直前まで卒論に取り組んだ村田恵子さんの思いを卒業生に話して聞かせています。その理由を「恵子さんの卒業論文はお母さんからもらった万年筆で書かれていました。ワープロではなく自分の手で書かれていたことや、その内容から村田さんの気持ちが伝わってくるようです。卒業論文が今も残って影響を及ぼしているということは、その人が生き続けている証です。これからも、語り継いでいきたいと思います」と話されました。
「とても愛嬌のある笑顔の女性でした」恵子さんの指導教員だった玉井敬之氏
玉井先生は「16年前を思い出し、胸に迫るものがあります。恵子さんのゼミは、私が大学で初めて受け持ったゼミです。ですから、16年経った今でも、恵子さんは忘れられない学年です。とても愛嬌のある笑顔の女性でした。震災の朝、ゼミの学生から電話で恵子さんの死を聞いたときのことは、今でもよく覚えています。恵子さんが熱心に取り組んだ卒業論文は、瓦礫に埋まっていたと思えないほど綺麗な状態でした」と遠くを見るような表情で、恵子さんの思い出を話されました。
恵子さんの遺品を展示することを大学に提案した横井川周子さんと渡辺世里菜さん
横井川周子さんは「学校の授業で阪神大震災について調べる機会がありました。何も知らないまま卒業してはいけないと、恵子さんの話をもう一度聞きたいと思いました。恵子さんのお母さんに寄託して頂いた本を、恵子さんの詩集と共に学生の目につく所に置くよう、大学にお願いしましたが、遺品まで展示していただけることになり、嬉しいです」と提案したきっかけを説明されました。
渡辺世里菜さんは「恵子さんの卒業論文を見て、あの量の文章を、あんなに綺麗な手書きの文字で書かれたことに驚きました。最初のページと最後のページの字が同じように綺麗なのは、恵子さんが丹精込めて書かれたからだと思います。卒業論文や玉井先生らの話を聞いて、恵子さんの笑顔や熱意・優しさ・力強さに惹かれました。ご両親に会うことは私たちのゴールでしたが、『何年も前の傷をえぐることになるかもしれない』と心配していました。今日、お会いできてとても嬉しいです]と、ご両親にお会いできたことを喜んでいました。
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取材を終えて
胸が熱くなるような思いで取材 同じ武庫女の学生という身近な存在の方が不幸にも震災によって亡くなられたという話を聞き、胸が熱くなるような思いで取材をさせていただきました。亡くなった恵子さんの在学当時の様子を語るお母さんの話から、武庫女に通っていた頃の恵子さんの様子が思い浮かびました。恵子さんの卒論が図書館に展示されることで、普段はあまり図書館に来ない人も、足を運んでくれることになればいいなと思いました。(田中未来子)
命について考え直さなければならない 展示を見ながら涙している恵子さんのお母さんの姿を見たとき、私は涙を必死でこらえました。延子さんは終始「ありがとうございます、感謝しかありません」とおっしゃていました。恵子さんの卒論は、本当に綺麗な字で、恵子さんのお人柄が表れていました。これを機会に、私たちも命について考え直さなければならないと思いました。(山田有佳)