緒方洪庵を追悼する和歌を図書館所蔵品から発見。往時の大阪が最先端の科学を受け入れる都市であったことを証明する貴重な資料です。
2008/03/12
大阪に適塾(後の大阪帝国大学医学部)を開き、福沢諭吉らを育成した医師・蘭学者の緒方洪庵(1810~1863)の死去1年後、大阪天満宮の神主だった滋岡長養(しげおか・ながかい)が詠んだ追悼の和歌が、附属図書館の所蔵品の中から発見されました。
滋岡氏の子孫の滋岡長平さんが平成10年に、約5000点の文書を本学に寄贈されました。関西文化研究センターが、古典籍デジタルデータベースのプロジェクトとして中央図書館貴重図書閲覧室で文書をデジタルカメラで撮影中=写真左=、管宗次・文学部日本語日本文学科教授が、和歌が書かれた懐紙(縦26cm×横37cm)=写真右=を見つけました。
和歌は、洪庵の医学者としての功績を讃えたもの(=下記の「和歌①」)と、外国語翻訳者としての業績を讃えたもの(=下記「和歌②」)の2首です。当時の日本では、オランダ語の医学書は一旦、漢語に訳してから日本語に翻訳していましたが、洪庵はオランダ語を直接、日本語に翻訳する画期的な手法を開発。洪庵は自らの日本語の力を養うために、大阪天満宮でよく行われていた国学者や神官の集まる歌会にも熱心に参加していました。和歌2首と添書きからは、洪庵と長養がたいへん親しかったことや洪庵は神主たちから尊敬されていたことなどがうかがえます。
『緒方洪庵翁追悼』
題:花
和歌①「咲花の 日数延ばゝる 薬をし とめてとこよの 国にゆくらん」
意味:短命である桜の花の命も延命させるほど名医であった洪庵もついに常世に国にいくことになったのだなあ。(※薬をし=医師)
和歌②「外国の わかぬこと葉の 花さえも この下露の かゝりてぞにほう」
意味:外国語の難しい言葉であるが、その言葉にかかる下露のように洪庵の偉大な功績が今も匂うようだ。
添書き:西洋学の人が和歌を詠むといっても、題が「花」なら「花」の和歌しか詠まないが、それだけでなく、洪庵先生の業績を追悼の和歌に読み込むことにした。また、追悼かを奉じるのが遅くなってしまったが、京都の名所・岡崎の桜花なら、残花であってもよかろうと思う。和歌を献ずることができてうれしい。
管教授は「伝統を重んじ、保守的な職業であった神官さえもが、ヨーロッパの学問を学ぶ緒方洪庵の才能を認めていたということを示しています。当時の大阪が、最先端の科学を受け入れる素地を持った都市であったことを証明する貴重な発見です」と話しています。